うわごと
きょうは晩ご飯はないのですよ。日中ちょっと中途半端に食べてしまったもので。
実は最近、超々重~い腰を上げて、試しに本を一冊訳しているのだけれど、わけあって、きょうで一段落(ほんとに一段落)つけたいと思うことがあって、きのうあたりからちょっと根をつめてみたりしているのだけれど、これが本当に牛歩のごとく進まず、というか、牛歩の方が当然はやいくらいというもんで、頭はグルグル回しているいるつもりにもかかわらず、キーボードに置いた手の方は長らく休憩に入っていたりなんぞすると、ついついなんか口に入れたいと思ってしまい、もちろんここで口に入れるというのは液体というよりは断然固形物であって、ゆえに大して腹もすいてないくせに何か食べたりなんぞして、ぜんぜん動かないわ、がんがん食べるわで、翻訳というのはまったくもってして体によくないわいと、どう考えても自分勝手な言い分をつぶやきながら、いまに至っています。
いま訳している本はわたしのライフワークとなりつつあるフラワーエッセンスのレメディを実際英国で作っているジュリアンさんが書かれた本で、ほとんどバイブルのようにすでに何度も何度も呼んでいるにもかかわらず、いざ訳そうとすると実は何にもわかっていなかったということがはっきりくっきりわかってしまって、いつものごとくボーゼンとしてしまっているのだけれど、もっとおもしろいというか哀しいというか、どうしたもんかなあと思っていることは、原文で読んでるぶんには完全に理解しているのにそのくせちっとも日本語にはならない文というのがごくたま~に出現するということで、それってどういうことよときかれてもこれはもう理解しているとしかいいようがなくて、わたしの脳みその中では英語の原文が言葉というという殻を脱いで言葉以前のイメージというか、たぶんこれが言葉の“クオリア”っていうものじゃないのだろうかと思うんだけれど、そういうものになっていて、わたしの脳みそは「わかった!」と叫んでいるんだけれども、いざそれを日本語にしようとするとできなくて、まあこれは単純に日本語力がないかというか翻訳へたということなだけであって、いまさらどうよというほどのことでしかないわけだけれど、その言葉のクオリア状態というか、それはもう音でも形でもイメージでさえもなくて、本当に存在しているのか存在していなのかわからないくらいあやふやな存在なんだけれども、それでもしっかり意味だけは「わかって」いるというその不思議な感覚がおもしろくて、認知学・クオリア学的には有意義な考察ができるかもしれない経験だなどとは思ってはいるんだけど、そんなことよりも翻訳的には、意味はわかっているけれど日本語にならないというのと、原文の意味さえわかんないのよというのと、どちらの方がより嘆かわしい状態なのだろうかと、それこそほんとにほんとにどうでもいいことをふと考えたりしてしまっているのです。











































最近のコメント