empowerment

2009年5月27日 (水)

天の声

日曜から諏訪に行ってました。去年受けていたフラワーエッセンス講座の補講です。今回は自然の中にじっくりと身を置いてみよう、ということで1泊の合宿。場所は八島湿原。

諏訪は、日本を縦と横に分断する巨大な2本の断層が交差するところで、地殻エネルギーが大きく揺れ動ている場所だそうです。断層上にはいわゆる「ゼロ磁場」という特別なエネルギーフィールドが生まれるとも言われています。太古の人々は、そういった微妙なエネルギーの違いを感知することができて、そこを特別な場所あるいは神の住まうところとして崇めたのかもしれませんね。

八島湿原の中にある御射山遺跡というところもそういう場所のひとつみたいです。ここは古代の祭儀場跡と言われていて、すり鉢状の底にあたる部分には小さな祠があります。それを取り囲む斜面は階段状の桟敷になっていて、2、3万もの観客が収容できたとか。発掘場所からは大量の黒曜石が出土していて、その量から祭儀場一面が黒曜石で覆われていたのではないかとも推察されています。それが本当だったとしたら、さぞかし神々しい雰囲気だったことでしょうね。

この場所で天からのメッセージに耳をかたむけることになりました。わたしは第六感どころかふつうの五感さえぼんやり怪しい体質なので天の声なんか聞いたことはないけれど、こういう時は「成りきる」のが大事。ということで、なるたけ心の枠をはずして何も考えないようにしばらくぷらぷら歩いていました。そしたら、なんと声が! 

それは、どこからともなく、わたしの中にぽっと湧きました。たった一言。

ユルセ

「(自分自身を)許せ」 ・ ・ ・
その瞬間、何故だか分からないけれど、号泣きしてました。

最近、どうにも一歩踏み出すことができなくて、どんどん大きくなる躊躇の塊りの前で茫然としていた自分。でも、一歩踏み出すこと自体が本当に必要なのか、それにも自信のなかった自分。答を見つけられないことも、答を探すことも、どっちも間違っているような気がしていた自分。そんな自分をこころのどこかで責めていた自分。

流れ続ける涙といっしょに、そんな自分がとけていったような気がします。

天の声だなんて気のせいかもしれないけれど、気のせいでもいいじゃない。
おかげで「元気」になりました。元のわたしに戻った♡

手段は、なんだっていいんです。元気になれるんであれば。

くよくよ考えるのは、や~めたっ! わたしはわたしで大丈夫。
今のままで、だいじょうぶ。




1日目は雨で情緒たっぷりの湿原。
P1040760_4

こんな木道を歩いていきます。
P1040764_2

途中で森に分け入ると。。。
P1040770_2

こんなクルクルが。。。
P1040771_2

ひらくと、シダに。
P1040775_2

今回いちばんのお気に入りショット。
P1040783_2

翌日は大快晴! お部屋の窓からの眺め。
P1040819

こちらが御射山遺跡。木立の中に祠があります。
P1040832

松ぼっくりの赤ちゃん。
P1040830

枝の先っちょに宿る、遠慮がちなヤドリギ。
P1040838

遠くにアルプスの峰々も。
P1040842      

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年5月11日 (月)

ゆらゆらしながら

お久しぶり、です。
大型連休も終わって、気がつけばずい分サボってましたね。
(そう、サボってたんです (^^ゞ)
この間のご報告をひとつだけ。

東京は護国寺のお隣りに「天風会」という団体の本部があります。
ここは、身も心も元気になって与えられた命を全うするのが人間の使命という信念のもと、そのための具体的なノウハウを教えひろめているところです。そこの会員である友人に誘われて、江ノ島で行われた二泊三日の「修練会」というものに参加してきました。まあ、合宿みたいなものですね。

「身も心も」ですから、座禅みたいなものをして講話みたいのものを聴いたりもすれば、体操して思いっきり体を動かしたりもします。見かけはかなり「体育会系」の、根性!根性!信念あるのみ!みたいな感じで、朝夕海岸で体操をするときも結構な数の人が頭に鉢巻まいてたり、最後は「ワッショイワッショイ」掛け声かけながら浜辺をランニングしたりするんですから、はたから見るとかなり「怪しい」。でも、実際の中身は存外しなやかで柔らかです。しなやかでなければ「元気」にはなれませんからね。「ワッショイワッショイ」の掛け声も、掛け声というようりは無邪気にあそぶ子どものはしゃぎ声みたいなものです。

おもしろかったのは、何回か行われた「実験」というやつ。
たとえば、30cmくらいの長さの和紙の「こより」を片手の指ではさんで、それで別の人が両手で握っている割り箸を半分に叩き切る、といったようなものです。これは念力で切るとかいうのではなくて、合気道とかで何枚も重ねた瓦を割ったりするのと同じで、物理的な力関係で自ずと切れるだけなのですが、「切れるわけがない」と思っているとやっぱり切れません。常識や思い込みで縛られた「こころ」や「意識」は精神の「凝り」を引き起こし、それがブロックとなってエネルギーの滞留を作り出します。こころの凝りを解きほぐすことで体の内と外とのエネルギーの流通がよくなるわけです。(ということじゃないかなあ、というのがわたしの解釈) 「実験」を通してこの縛りを破るということを実際に自分で体験すると、「わっ、ほんとだあ」という気持ちが起こって、それがさらに縛りを解いていくきっかけになるんですね。

片面は白、もう片面には色がついたカードを目をつむった状態で指でさわって色のついたほうを当てるという実験もありました。違う色のカードを2枚使って色を当てるということもしました。これは、ふだんあまり使わない指先の触感を研ぎ澄ます訓練だと思います。物には必ず個体差があるので、感覚を鋭敏にすればその僅かな個体差も認知できるはずですよね。人間は機械を使うようになってから、本来持っていた体の感覚がかなり弱くなってしまいました。外界からの刺激に対して、いわば「ぼーっとした」状態でいるわけです。そういうことでは、内に発生したトラブルにも対処できないし、外からのエネルギーを取り込むこともままなりません。それが現代人の総体的なエネルギーの減退や免疫力の低下に繋がっているんじゃないでしょうか。だから、五感を研ぎ澄ますことは生命力を増やすことにつながると思います。五感以外の(現在科学的には数値で示すことのできない)感覚にも同じことが言えるでしょう。帰ってきてからは、もらってきた4色のカードを使って五感以外で色を当てる訓練をしていますが、最近は目をつむっていてもかなり色が「見える」ようになってきたから不思議。

もうひとつ頂いて帰ってきたのは「養動法」というもの。
これは背筋を伸ばして静かに座りおへそを回す感じでお腹のあたりを右回りに動かす運動です。そうすることで、背骨の曲がりを矯正し、内臓をしっくり収め、血の巡りを良くして、バランスを整えるというのものなんですが、もともと体を揺らすという動作は気持ちのいいものだし、精神を安定させる作用もあるんじゃないかしら? ゆっくりゆったりゆらゆらしていると、こころが落ち着いてきます。ちょっと愉快でもあります。ここで忘れてならないのが「肛門を締める」ということ。そうでないと精気が抜けていってしまうんですね。そして丹田をちょっと意識する。だから、運動とは言えないほどの運動なんだけど、続けているとそれなりに腹筋背筋が鍛えられるような、一石二鳥(ほんとは三も四もある?)のような気がして、結構お気に入りです。何かと言うとゆらゆら、「ながら」でやってます。

方法論はまったく違うけど、入口と出口はわたしがやっているフラワーエッセンスと同じだなあと思いました。
しあわせになるにはいろいろな方法があって人それぞれです。
だから「これを信じなくちゃいけない」というのは盲信だけど、一方で「信じるこころ」がなければ何事も成就しません。薬は「プラシーボ」で効くのです。「プラシーボ」とは「信じる」ということです。「信じる」ということは、つまり「意識を注ぐ」ということ。
「信じる者は救われる」だから、やる以上はとりあえず信じてみようじゃないの、というところです。効かなかったら、次を試せばいいんだから。
だいじょうぶ、だいじょうぶ。ゆらゆらら。。。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年2月21日 (土)

念願叶い

昭和の竜宮城に行ってきました。

ずっと前から一度鑑賞してみたいと思っていた百段階段。
でも、ふだんは豪華お食事付きのガイドツアーにのらないと
足を踏み入れることのできない場所なのです。

なんと、そこで平山郁夫展が開催されることに。
絵の展示会ですから、入場料はたったの1500円。
画伯には申し訳ないけど、こっちなら「のれます」!

階段にそって並ぶ7つの部屋は、もう豪華絢爛のひと言。
床柱もりっぱ、襖絵も欄間も天井画もりっぱ。廊下さえも
漆塗りだったりするんです!

これだけの贅を尽くすには、どれほどの資産が必要だったのやら。
もしかして、これは昭和の「竜宮城」ならぬ、昭和の「六本木ヒルズ」か。

でも、六本木ヒルズは崩れても、百段階段にしつらえられた美は
きっと純粋に美として存在しつづけると思います。

画伯の展示会はまだまだやってますから、お近くの方は
ぜひ一度、はなしのタネにでも見に行ってみられては?

お奨めします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年2月 9日 (月)

錯覚

東京都写真美術館へ行って、こちら


大きなスクリーンに何か得たいの知れないものが映っている。
スクリーンの向こうは部屋になっているようだ。
真っ暗な洞窟のようなそのスペースに入ってみると、先ほどのスクリーンが
同じものを、ただしさっきとは左右逆に、映していた。

スクリーンを表と裏、両方から見たのは初めてだ。
スクリーンの表と裏では、鏡の中と外みたく、左と右が入れ替わっていた。

ひとつの光が作る、ふたつの世界。


スクリーンに映るものは、
ろうそくの火だったり、人の手だったり、満月だったり。
ほとんど動かないものばかり。

本来、動きをとらえるはずの映像が、ここでは動かないものを映している。
しいて言えば、ここで動いているのは、光。

そして、音。
血管を流れる血の音が聞こえたら、こんなだろうか。
からだの中で唸る音。大地の底で響く音。あるいは、宇宙の真空を渡る音。
そんな音が、わたしを揺さぶる。


ほとんど動かない映像と、隙間のない音の前で
永遠の時を見ているような、そんな錯覚。
錯覚を錯覚のままにしておきたくて、いつまでも座り続けていた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年11月21日 (金)

しょっぱい質問

またまた後輩ちゃんのお芝居へ。
そこで出てきたこんなような台詞。

『もし世界が明日で終るとしたら』シリーズ100の質問。
これが最後の質問。
今、あなたは陣痛の始まった子宮の中にいます。
もし世界が明日で終わるとしたら、
あなたは次の行動のどちらを選択しますか?
1 とりあえず生まれる。
2 生まれても意味がないので生まれない。


あなたはどちら?
こたえはそれぞれにそれぞれでしょう。

でも、ふと思う。
人はみな、ほんとは「とりあえず」生まれてきたのかもしれないな、って。
だって、出てくる場所がどんなところかも分からず、
そこで待ってる人がどんな顔で待ってるのかも分からず、
「世界が明日で終わる」なんてこと絶対ない!なんて保証もなく、
それでも生まれてくるんだもん。
「とりあえず」とでも思わなきゃ、怖くて出てこれない。

「とりあえず」生まれてくるんだよ。先は分かんないけど。
そして、そのあとも、そのあとも、
「とりあえず」生きてるんだよ。先は分かんないけど。

「生まれても意味がないから生まれない」、んじゃなくて、
「生まれても意味がないから生まれる」、ってこと。
生きることなんかに意味はない。だから、ない答を探し求めて人は
「とりあえず」生き続け、そうやって、いつの間にか生かされてる。

そもそも、この文は質問にならない。
だって、「生まれる」って受動態。自分で選択できることじゃない、んだもん。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年11月16日 (日)

プルートの教え

土曜日、青山のあと恵比寿へ。

心理占星術研究家、鏡リュウジさんのセミナーを聴講してきました。
女性誌的星占いにはあまり興味のないワタシですが、占星術そのもののシンボリズムにはいつもかすかに惹き付けられるものを感じるし、鏡さんとはずい分前に一瞬、個人的に袖振り合ったことがあったので、なんとなく親近感があるんです。しかも今回は冥王星についてお話しをされるというので、なぜか「これは行かなくては」という気がして。

ワタシは占星術には具体的な興味はないけれど、天文学にはとても関心があります。そして、この二つは一般的には「似て非なるもの」とされてはいるけれど、本当はそんなことはないんではないか、と疑ってもいます。科学が錬金術から生まれたように、今の科学と非科学も実はどこかで繋がっているような気がするのです。

おととし、太陽系の惑星の定義が明確化され、それまで暫定的に「惑星」とされていた冥王星は惑星ではなく「準惑星」になることが決められました。これを冥王星の「降格」と世間では騒いだのですが(なんと、冥王星の英語名 pluto を受動態にした pluted が「降格された」という意味で使われるようになったとか!)、鏡さんも言われていたように、これは冥王星の降格というよりは、惑星・準惑星の定義が明確化されることで太陽系自身の枠組みが新しくなり、それにより私たちの持つ「宇宙観」に変化がもたらされたということなのです。準惑星が登場したことで、私たちの意識の上での太陽系のスケールは格段に広がりました。今までは冥王星が一番外の星でしたが、今はエリスが一番外の星です。太陽からの距離がうんと広がったわけです。

鏡さんによると(というか鏡さんによらなくても占星術でそうなわけですが)、冥王星とは名前の通り、冥府を象徴する星です。ですから、キーワードのひとつは「死と再生」。神話では神様や英雄がみんな冥界へ下っていきますよね。そして、またこの世に戻ってくる。これは「死」という体験をすることにより人には変容がもたらされるということの象徴なのです。だから、「死と再生」とは「変容」を意味し、冥王星は変容を促す星でもあるのです。私たちは生きているあいだにも変容が必要です。そして、それは「パターン化された自我」を滅するという連続した「小さな死」によりもたらされるものなのです。

ふだんは天文学にさして興味を示さない人たちが多い中、冥王星が惑星からはずされるという話題は大きく世界を巡り人々の心に揺らぎをもたらしました。これこそ、「変容」というキーワードを持つ冥王星の力の表れのようにも思います。今、私たちに求められている変容、それは「死ぬとは何か、生きるとは何か」という死生観の見直しです。

鏡さんが言ってました。「womb(子宮)」と「tomb(墓)」は繋がっている。また、こうも言ってました。「もののけ」とか「もののふ」とかいうように、日本語の「もの」という言葉には心や魂というものが含まれている。日本人は古来より、見える世界と見えない世界を分けて捉えてはいない。

「死」と「生」は決して相反するものではなく、また、はっきりと線を引かれて分け隔てられたものでもなく、同じ一つところに在って、いわば互いの中に互いを含むようなものなのです。さらに、ひとつの個体の「死と生」は別の個体の「死と生」と融合し、お互いの中で息づいているのです。(例えば、私たちの生命は他の生き物の死を「食物」という形で摂りいれることにより成り立っている) このことを、冥王星は私たちにおしえようとしてくれているのではないか。鏡さんのセミナーを聞いて、こんなことを考えました。

あっ、そっかー。だから「行かなくては」と思ったんだ。きっと、ワタシ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年11月13日 (木)

人間主義からの脱却

きょうはこちらでお勉強。
またまたパネリストにランディさんが。
決して彼女を追っかけてるわけじゃないんですが。

定員200名、当日先着順。たいして来やしないだろうと直前に滑り込んだら、
一流どころがご集合ということで大盛況。別室でのモニター拝観となりました。
日本を代表する知性のお話しなので、さすがに内容は超アカデミック。
さらに、学者先生たちの「文法」は特別仕様で、とても難解。
頭を最大パワーでフル回転させ、なんとかついて行きました。


生物が自然界で見せる振る舞いに「ロジスティック曲線」というものがある。閉じられた系の中である種が発生すると、最初はゆるゆると、それがある時点から爆発的な加速増殖を始め(変曲点Ⅰ)、一定期間の後安定平衡期に入る(変曲点Ⅱ)。これをグラフにするとS字の曲線を描くというわけ。そして、変曲点Ⅱで失敗すると消滅の運命をたどる。

人間社会も実はこの原則にのっとって発展をとげ、変曲点Ⅰは鋳造貨幣(価値をシンボルとして表す貨幣)が出現したBC500年頃。世界中に散らばっていた共同体が繋がり、普遍的価値観が生まれ、世界が「無限」に向け広がった時。そして変曲点Ⅱは現在。1970年を境に人口増加率が減少を始め、あらゆる価値観が閉塞し、地球資源の枯渇が予測され、「時代」が歩みを止め、世界が「有限」に直面し喘いでいる。

この直面する「有限」を打破できるのは、人間至上主義からの脱却。人間が自然界の頂点に立っているという自らの価値観からの脱却。ひとつの「生命存在」として、他の生命存在と「共感」を取り戻し、「共生」していということ。そこに、変曲点Ⅱを無事通過し、消滅の運命から逃れ、安らかな平衡期にある人類の未来が見えてくるのではないか。

なるほど。。。


いろいろな方のいろいろなお話を聞いていて、ふと、ワタシが今年になってあちらこちらから拾い集めてきたいろんなことがきょうここで繋がってるな、という気がした。
向いている方向、間違ってないのかも、という気がした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年11月12日 (水)

狂言 de リア王

きょうの午後は観劇、こちら

狂言師とオペラ歌手による能舞台での『リア王』。
国立能楽堂を訪問したのも、狂言を見るのも、これが初めて。
いやっ、オペラだってほんとはちゃんと見たことない。
実は、シェイクスピア劇も。。。

初めてづくしの舞台でしたが、あまりの見事さに、ただ脱帽。
終ってからも、なかなか去りがたかった。
「一流」とはこういうことでしょうか。

狂言って、なんだかとっても面白そう。
もちろん、きょうのは「正当」ではないわけだけど、
そこにあった「芸」は間違いなく「正当」のはず。
伝統という「時」の分厚さのなせる技を初めて見たように思います。
「完成」されたものの力強さ。「完成」されたものの美しさ。

ご存知、能舞台には「舞台」があるだけでセットなんか何もない。
でも、そんなものの必要性は欠けらも感じませんでした。
きっと、シェイクスピアの時代もそうだったんじゃないのかなあ。

それにしても、狂言って独白が多くありません?
「兄の筆跡を真似てわたしが書いたこの手紙で父をだまそう、イッヒッヒ」
なんて聞かされると、「自然主義」に毒された現代の観客のワタシは
あまりのワザとらしさにちょっと背中がくすぐったい。
けれども、そもそも芝居とは「自然」でなければならないわけもなく、
ナレーション役がいなければ演者が自ら状況説明する以外に方はなかった。

あー、そっかあ。シェイクスピア劇に独白が多いのも、そういうことだったのかあ。

なんて。

ちがう、ちがう。きっと、ちがうっ。
シェイクスピアの独白をト書きだなんて言ったら、
おそらく、世界中のシェイクスピア・ファンからドヤされる。

と、頭をちまちま働かせながらも、結局
「一流」が重なり合って生みだす「美」というものに
すっぽり包まれ帰路についたワタシは、
ただただ素直に幸福でした。
あー、シアワセっ!

来年の6月は、『オセロ』やるそうです。
今度も絶対、見ます!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年11月 9日 (日)

ホリスティック

日本ホリスティック医学協会のシンポジウムへ行く。
ランディさんの話を聞きたかったというのもあるけれど、ワタシのやってる
フラワーエッセンスも一応ホリスティック医療の仲間なもんで。

ホリスティックとは「全体的」という意味で、ホリスティック医療とは、病気を「特定の部分の疾患」とみるのではなく、体と心の両面から全体的にとらえ、人間が生来持っているはずの「治癒する力」を活かして病に対処していこうとするものです。

つまり、西洋医学にとって病気は「治す」ものであるのに対し、ホリスティック医学では病気は「治る」もの、といってもいいかもしれません。医療はその手助けをするだけなのだと。

ランディさんがこんなようなことを言ってました。
人間は長いあいだ言葉を使って社会を文化や作ってきたので、言葉以外のコミュニケーション能力を失ってしまったのではないか。そのために、人とも自然とも自分とも対話ができなくなり、自分で自分を治癒する能力も失った。代替医療とは、そんな言葉以外のコミュニケーション能力を復活させるものなんじゃないか、と。

コミュニケーションのあるところには「場」ができる。
その「場」に癒しの力が宿るのかもしれませんね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年11月 8日 (土)

美を感じる

翻訳の教室のあと、帰り道に駒場にある東大の博物館へ寄りました。

お目当ては、こちら。アーティストが作品を創作するそのプロセスを、認知心理学の立場から読み解こうという試みです。

そもそも絵とは人間が世界をどう見ているかを表現する行為なのだった、と小川信治さんの作品を見ていてあらためて思いました。《Chain World》という映像作品では、スクリーンに映し出されたある絵の一部分がどんどんズープアップされていき、今度それがズームアオウトされるとまったく違う絵の一部分になっている、そんなことが何度も何度も繰り返されていきます。それをじっと眺めていると、世界は空間も時間も越えてひとつに繋がっているという実感が理屈なしで感覚に飛び込んできます。不思議な体験でした。

無料ですので、お近くの方はぜひどうぞ。


せっかく駒場へ来たのだからと、こちらにも訪問。

柳宗悦が生活の中の美を追求する場として創設したものです。収蔵品もさることながら、その建物自体が生活の美ですね。特に旧宗悦邸に入ると、木と紙と畳の匂いに美を感じます。ワタシは作品の価値は分からないので、きょうはなるたけ理屈なしで感じることだけに集中してみました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年11月 7日 (金)

写真の力

久しぶりに写真の力を感じたサイトです。

http://www.boston.com/bigpicture/2008/11/the_next_president_of_the_unit.html

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年10月24日 (金)

変容

フラワーエッセンス、秋のワークショップへ行く。

もうすぐハロウィンですね。これは、ケルトの新年のお祭 SAMHAIN (サーウィン)が起源です。実りの秋の豊穣を感謝し、過ぎ去った1年を葬り、新しい年と闇の季節を迎えるべくこころの準備をする。この時期は、この世とあの世の境目があいまいになるので、先祖の霊や善玉悪玉もろもろの魔物もこちらにやって来るらしいですよ。

そんな時期のワークショップは「変容」がテーマ。

人にはいろいろなクセがあります。話し方やからだの動かし方など目に見えるものから、ものの考え方や感じ方など目に見えないものまで、人の行為のほとんどはクセによって形作られています。ふだん、わたしたちはそれを意識することはありません。意識しないからクセというのです。

このクセがクセものです。クセにたよっていると楽です。行為する前に考えなくてすみます。物事は自動的にすすみます。でも、自動的ということは、ある意味、ロボットのようだということです。クセは、別の言い方をすれば、わたしたちの行為を形作る「枠」です。枠にずっとはまっていると凝り固まって痺れてきます。エネルギーの流れが滞ります。そして、内にあるものも巡らず、外から入ってくるものも取り込めず、だんだん干からびていきます。

生きるということは、変化すること。クセに捉われてはいけません。クセの作る枠から解放され、エネルギーの流れを取り戻し、プログラムされたことしか繰り返せないロボットではなく、いつも自由で新しい反応のできる子供のような存在に還るのです。

大抵、わたしたちはそんなことはしたくないと思います。変化することは勇気のいることだからです。プログラムのままに動いている方が楽だからです。それほど、クセの誘惑はとんでもなく強力なのです。自分ひとりではなかなか振るい払うことができません。

そんなとき、ちょっとヘルプを呼びます。クセの固い鎖を溶かして無能力化するエージェント、フラワーエッセンスです。今回、わたしが選んだのはホリー。ホリーはあの艶々した葉で暗い茂みに光を与える木です。こころの闇にも光を投げかけてくれるはず。暗闇の中に閉ざされていたエネルギーを引き出して、新しい何かに取り組む力を与えてくれますように。そう祈ったら、小さなボトルがこう応えてくれました。

「大丈夫。何も心配しなくていいんだよ。僕がずっと守っていてあげるから」

しばらく涙が止まりませんでした。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2008年10月20日 (月)

なんのために練習するか

二胡発表会前の全体練習会に行く。

35名ほどの全参加者の内10名ほどが集まる。意外と少ない。合奏曲をみんなで練習したあと、先生の提案でプチリハーサルとなった。ひとりずつ前に出て自分の発表曲を弾く。ふだん、ひとりでレッスンを受けているワタシには、よい経験であった。

ひとり、とても上手な人がいた。彼女の弾いているのを見て(「聞いて」ではなく、ここはあくまでも「見て」)、変なはなし、二胡ってこう弾くんだ、ということが初めてわかった。もちろん先生が弾くところは何度も見たことがあるが、先生は「先生」であるという存在ゆえに自分との距離がありすぎてよく見えなかったのだろう。自分と同じ学ぶ立場の人が、自分も練習したことのある曲を、自分とはまったく違う曲のように弾いている。

二胡で弾くと音楽というものはこうなるんだ。二胡ってこういう楽器だったんだ。
恥ずかしながら、そういうことが初めてわかった。そして、

彼女みたいに弾けるようになりたい、二胡という楽器をちゃんと二胡として弾けるようになりたい、と思った。

なんだか、発表会はもうどうでもいいような気がしてきた。きょうからの練習は、もう発表会のためじゃない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年10月19日 (日)

ウォン・ウィンツァンさんのピアノを聴きに築地の朝日ホールへ。

今回はウォンさんの息子、美音志さんとのジョイントライブでした。
美音志さんはギタリスト。きょうはアコースティックのみ。
マイクもはいってたようですが、やっぱりピアノには負けます。
音合わせの時にお互いポロポロ弾いていたのが実は一番よかった。
でも、お父さん譲りの透き通った音で、なんかイイ感じ。
で、買っちゃいました。ファーストアルバムのサイン入りCD。

ワタシ的本日のハイライトは、なんとアンコールのピアニカでした。
小学校の音楽の時間に弾かされたピアニカ。
そんなイメージしかなかったピアニカが、生き物のように歌ってました。

人の息のなせる技か。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年9月23日 (火)

宇宙のはなし

天文学に関わるシンポジウムに行ってきた。
ちょっとボーっとしているあいだに、宇宙はずい分と様子が変っていた。
だーく、だーく、だーく、とダークダックス大合唱だ。
「光」ではあらわれない、「光」ではあらわせない、世界って、
一見、暗く冷たく淋しい。。。
でも、「何もない」と思っているところにも「何かある」という事実。
あるいは、「何もない」と思っているところにこそ「何かある」という真理。
宇宙のはなしは、いつもちょっと哲学的だから、好き

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年9月14日 (日)

タダに惹かれて恋に落ちる

ワタシは住所から言うと三鷹市民になるのだが、実際の生活範囲の半分は武蔵野市エリアなので、半分は武蔵野市民だと勝手に思っている。

なのに、その武蔵野市の文化会館にりっぱなパイプオルガンがあって、何年も前からそこで国際的なオルガンコンクールが開催されているというのはちっとも知らなかった。

その4年に1度のコンクールが今まさに始まらんとしていて、きょうはそのプレ・イベントである「シニアのためのオルガン・コンサート」というのに行ってきた。ワタシが「シニア」に入るかどうかは、まあこの際おいといて。とにかく、市民の皆さんに広くパイプオルガンに親しんでいただこうということで、コンサート以外にもいろいろな企画が催されていて、きょうはそのどれもが無料だというんだから、ワタシとしては行かない手はない。

どうです。なかなか、りっぱでしょ。
P1030436

こんなに大きいんですよ。
P1030444

いろいろお話を聞かせていただたところ、
パイプオルガンの「ミソ」は、どうやら鍵盤のよこにある、
この取っ手みたいなヤツらしい。
P1030441   

これは「ストップ」という名前で、どのストップを使うかで音色が変わる。
しかも、普通は複数のストップを組み合わせて使うので、ストップが増えれば
増えるほど、その組合せも数限りなく増える。
しかも、左手と右手とで別々の組合せにしたりすることもあるとか。
さらに、オルガンそれぞれでストップの音色も微妙に異なる。

つまり、(いろいろとお話を聞いた結果、ワタシが理解した限りにおいては)
オルガニストたちは、ひとつの楽譜を前にしながらも、演奏のたびに、
その場その場にもっとも相応しい音色の組合せを作り上げていく、言わば、
演奏者でありながら同時にアレンジャーでもある、ということなのだ。
オルガニストの力量とは、この組合せの技にこそあるらしい。

ワタシなんか、両手両足を同時に動かすというだけでも頭がこんがらがりそう
なのに、天文学的な組合せの中から最適なひとつを選ぶなんていう高度な技を
駆使していたなんて、パイプオルガンの奥の深さに魅入られた1日でした。
ちょっと、惚れちゃったかな。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年9月 4日 (木)

「私」はどこにあるのか

きょうは、「脳の世紀」というシンポジウムに行ってきました。

脳は今、巷でも人気者です。なぜ人がこれ程に脳のことを知りたがるのか、きょうの特別講演を聞いていて、ちょっと分かったような気がしました。

つまり人は、「私」とは何かということが、知りたいんですね。

外界の刺激を取り込んで処理したり、それに対する反応を外に表現したり、そのメカニズムを探ることは比較的簡単なことだと思います。でも、感情がどこで生まれるかとか、感情の「絶対値」はどこにあるのかとか、「自分」という認識はどのように発生するのかといったようなことは、まだまだぼんやりしているのです。もしかしたら、どこまでいっても、それは「分からない」のかもしれません。

観察する側(主体)と観察される側(客体)とがはっきりと分かれていた物理学でさえ、量子論まで到達すると、結局、主体と客体を分離することができなくなった。ましてや「私」が「私」を観察しようとして、果たして「私」なるものを取り押さえることはできるのか。

「私」など、どこにも存在しない ― それが究極の答なのかもしれない、
と言われたような、言われなかったような。。。


ちなみに、隣りに座っていた結構ご年配の紳士が、しきりに「ふん、ふん」とか「そう、そう」とか、「なるほどぉ」とか、声に出して相槌を打つので、この行動についての脳のメカニズムもついでに説明していただきたい、と思ったワタシなのでした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

自分を生きる場所

きのうは、知り合いのヒーラーさんに過去生リーディングをしていただきました。
すると彼女の頭の中には、繰り返し繰り返し、同じような場面が現れたのです。

いつの時代においても、たいてい有力者の娘として生まれ、なに不自由なく育てられていながら、「自分の生きる世界はここでいいのか?」、「他にも何か知らない場所があるのではないか?」と一種の憧れにも似た疑問を抱きつつ生きているのです。
それでも、社会や家庭や道徳や常識や、そういった「枠」の中から抜け出すことはままならず、「枠」の決めた人生を送り続けます。
決して不幸ではない。でも、大満足もしていない。

広大な平原を前にして高台にひとり立ち、はるか遠くに広がる景色を眺めながら
「あの向こうには何があるの?」、「世界はここだけなの?」 とつぶいている。

それは、まさしく今のわたし、そのものでした。

なんという長い時間、わたしは延々と同じ疑問を問い続けながら、その答えを得ることなく似たような人生を繰り返してきたことか。
こんなに似通った場面が現れるのは、過去生リーディングをしていても、かなりめずらしいことなんだそうです。

でも、それだけに、なお一層感じることができました。
「やっと、その疑問に答えが出たのだな」と。

そう、全き自分を生きる場所を求めるのに、はるか遠くを眺める必要などなかったのです。本当に自分が自分らしく生きる途は、自分自身の中にこそあるのだから。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年8月31日 (日)

ナツメ、ふたたび

きのうは、青山での翻訳のお教室、今期最後の授業でありました。
皆さんとのお別れを惜しみつつ、いつもの大ランチを後にしたワタシは、その足で六本木方面へ。行き先は、ミッドタウン・ガーデン内にある、21_21 DESIGN SIGHT。

ここは、ミュージアムといっても「デザイン系」なので、普通の美術館とは少し趣きが違う、ような気がする。館内で見かける人も、スタッフを含め、みな若い。恐らく、20代。
もちろん、デザインもアートの仲間というか、その一部というか、そこに明確な線を引くことはできない、だろう。今回の展示でも、デザイン系とアート系が入り混じっている。
だが、敢えてその違いをいうとしたら、デザインには必ず何か「目的」があり、扱うべき「対象」がある、ということか。それだけに、その「窮屈さ」に対抗しようとする力、その「束縛」から逃れようとする「もがき」みたいなものが、若いエネルギーのようにピチピチと跳ねて見える、のかもしれない。そういうのって、またの名を「遊び心」、と言うのかな?

今の展示は、こちら、です。時と空間を越えて集められた文字と言葉たち。
文字って、たとえ表音であろうと、形があり、その形には魂が宿る。そもそも、それを支える言葉(音)が、魂を持って生まれ、その魂は長く命を育むあいだにどんどん深くなっていくのだから。。。
と、そんなことを感じられる展示です。文字と言葉の力に包まれます。気持ちいいです。ずっとこうして包まれていたい、と思います。もう1度行きたいくらいです。
まだまだやってますから、お近くの方はぜひどうぞ。


     青山1丁目から六本木へと向かう途中、「旧乃木邸」というのを発見! 
     かの乃木大将が夫人と共に自刃したお屋敷です。
     はぁ、知らなんだー (゜.゜)

     で、敷地内に入ってみると、さらにこんなものが!
     P1020974_2

      「ナツメ」授業が終わり、またしてもナツメに出会う。。。
     「なつめ組」の皆さん、これはどう考えても
      “obligatory pilgrimage” ですよ。(超内輪ネタですみません)

     孫といえども、この立派さ。続けよ、弟子たち。   
     P1020972

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年7月12日 (土)

個を超えて

日本トランスパーソナル学会というものに行ってきました。

「トランスパーソナル」とは「個を超えて」という意味で、「トランスパーソナル学」はいわゆる「トランスパーソナル心理学」をベースにしているとは思うのですが、では「トランスパーソナル学」が目指しているものとはいったい何なのか。これについてはわたしもよく分かりません。(気になる方は自分で調べてみてくだはい。それで、分かったら、わたしにも教えてくだはい)

では、何故そのような学会へ行ったかといいますと、ただただ「ウォン・ウィンツァンさんのピアノをライブで聞きたかったから」なのです。しかも、オマケで(わたしにとっては)、鏡リュウジさんと田口ランディさんによる講演と、3人の対談もついていて、1粒で4度おいしいという「お得感」たっぷりの催しなのでした。

ところが、この「オマケ」が「オマケ」以上の充実ぶりで(実際は「オマケ」ではないので言わば当り前なんですが)、4度どころかその何倍ものうまさ。いやー、実にお得でした。

今学会のテーマは「信頼への祈り」。印象的だったのは、鏡さんや田口さんが常にキープしている懐疑的な姿勢でした。(鏡さんは、この学会の理事でもあるんですが) 「個を超えて」とくれば、そこには自ずと「他と繋がる」が見え隠れする。「信頼」も「祈り」も、時として「個」を超えた「他」との繋がり、もっと言えば「全体」との一体感を強制する。たとえ「良心」から出た行動であったとしても、その「みんなで仲良く手をつなごうよ」的な「強制」に無意識に感じる抵抗。これ、わたしにも強くあります。「よい行いは必ず善である」という「全体」の中での暗黙の了解に、「気持ち悪い」と感じる皮膚感覚。これ、大事だと思います。

「他」に懐疑的であるということは、自らに対しても懐疑的にならざるを得ないから。つまり、そうやって、いつもどこか「覚めて」いられるように。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

チーズとうじ虫

タダで見れるというので、本郷の東大まで「チーズとうじ虫」という映画を見に行ってきました。加藤治代さんという若き作家の初作品です。はっきり言って、あまり期待はしていませんでした。(「タダ」に惹かれて行ったくらいですから) でも、行ってよかった。

「ドキュメンタリー」となってます。確かに、自分の家族を撮ったホームビデオです。でも、脚本家によって書かれたどんな本にも負けずストーリーテリングでした。ただし、事件は何も起こりません。母親が死ぬこと以外は。

死の病と向き合って生きる母を、奇跡を信じる娘が優しく見つめます。スクリーンに映し出されるのは、ありふれた日常の断片。台所での料理のしたく、家庭菜園での畑仕事、絵や三味線の趣味の時間、孫の誕生、そして病院のベッド。でも、母親の死とその後の空白が現れた途端、映画を見始めるつい1時間ほど前までは赤の他人だったその人の、それも人生最後の1年半の「断片」とつきあっただけのその人の、何かとてつもなく分厚いものに触れた気がしました。

人生の大切なことって、そういうことなんだ、と。わたしたちが生きている時間のほとんどは、ありふれたことで詰まってて、つまらなかったり、イヤだったり、おもしろくなかったり、たまにちょびっとうれしかったり、そういう日々の連なり。でも、人生の大切なことって、何かを残すとか、何かを成し遂げる、とかそういうことでなくて、そういうありふれた1日1日の連なりそのものじゃないかって。1日1日を大切にしようっていうんじゃなくて、思いっきりダレて何にもしなかったどうしようもない日だって、その大切な一部だってこと。

そういうありふれた1日1日の連なりが、この地球上には数え切れない程あって、それは今だけじゃなくて、過去にもそうで、未来にもそうで、その大切さの分厚さに圧倒されました。

もう1度見たいです。(もちろん、お金出していいです)

会場を出たら東京の夜景が。
東大で夜景が見られるなんて、なんか贅沢な1日でした。
P1020820_2 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年7月10日 (木)

覚悟

「発表会、なに演奏しますかー?」 と二胡の師が尋ねる。
ほとんど無理やりで参加することになっている11月の発表会。
「いやぁ、まだ決めてないんですけどぉ。。。そうですねぇ、たとえばぁ。。。」 
とビビるワタシ、簡単そ~な曲名をひとつふたつ上げてみる。
「こんなのありますよー」 とワタシのビビりは完全に無視し、師が楽譜をひとつ
引っ張り出してくる。
『拉駱駝』 ・ ・ ・ なにコレ? 題名の読み方さえ分からない。
師がお手本を弾いてみせる。 ??? ・ ・ ・ 楽譜が追えない。
さわりだけ練習させられる。 ??? ・ ・ ・ アノ、アノ、アノ。。。
「じゃー、これにしましょうねー」
「エーっ、ちょ、ちょっと難しすぎませんかぁ。。。」
「まだまだ時間あるから、ダイジョーブゥ!」
・ ・ ・ そ、そんなぁ。。。

『拉駱駝』は、確かに二胡らしい曲。テンポの速いとこあり遅いとこあり。
頓弓、滑音、打音、トリルと、まるで「二胡テクのデパートやぁ!」。
聞いてる分には、「あー、二胡だあー」 とうっとりします。
でも問題は、ワタシが弾いても「あー、二胡だあ」になるかどうか。。。

とにかく、楽譜を見てもどんな曲かさっぱり分からない。
仕方がないので、CDでも出てないかとネットで探してみたら、幸運なことに
無料で聞ける音源が見つかった。さっそく聞いてみる。(QuickTimeです)

・ ・ ・ コレ、わたし弾くんですか? 冗談きついですよー。 
中盤の「チャンチャカチャンチャン・・・」のとこなんて、実際、笑ってしまうほど
テンポが速い。聞きながら楽譜を追っているのに、目がついてかない。

どうして、こーいうことになっちゃったかなぁ。。。

まっ、覚悟を決めてやるっきゃないね。まずは、これからこの曲を毎日聞いて、
頭にイメージを焼き付けよう。頭の中で再生できないものを、からだが再生できる
はずもない、だから。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年7月 9日 (水)

空へ

P1020789_2

とある場所で耳にして、恋におちた。

わたしに囁いたのは、「光りをあびて」

ピアニスト、ウォン・ウィンツァンが連れて来た天の声。

こういう「からだ」で聴く音楽は、ネットでダウンロードするよりも

せめて「お皿」からひろってあげなくちゃ。

で、奮発してCDを購入。

想像を、期待を、遙かに遙かに超えていた。

音の耀く粒が、「からだ」の中心にダイレクトに到達する。

細胞と細胞のあいだの膜が融け、

体のウチとソトの境目が消え、

そのワタシでもアナタでもなくなったものが

成層圏の向こうへと広がっていく。

涙が滲む。

a・ ri ・ ga ・ to

| | コメント (0) | トラックバック (0)

がぜん、のその先

ついでにいつものお店でお味噌を買おうと、

行き先を吉祥寺駅方面に向け、イザ出発。

この方面は歩き出す動機付けとしては力いっぱいなんだけど、

行き着いた先で誘惑の多すぎるのがちと困る。

味噌以外にも、寄り道いっぱい。

「歩く」のを忘れそう。

カラダよりも、サイフが先に軽くなる。。。


途中で不思議なお花発見。
P1020784

     花が落ちても
     P1020783 

            2度楽しめそう
            P1020782

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年7月 8日 (火)

がぜん、のゆくえ

P1020780_3   

雨の上がった隙に、いつもは自転車で行く図書館まで歩いてみる。

片道約30分。往復しても6600歩ほど。1万歩には、まだまだ足りない。

もう少し足をのばして、きょうの記録は8096歩。

別に「数」にコダワるわけではないが、もう少しペースを上げないと。

1日中、歩いてばかりもいられない。 う~ん。。。

と、さっき気がついたことが。

きのうまであんなにパンパンだった足首とふくらはぎ。

やっ、細くなってるっ! 劇的っ!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年7月 7日 (月)

がぜん

P1020753_2

カラダに肉が付いた、というよりは
細胞1ケ1ケが膨張してる、と思うほど
最近カラダ中がパンパン。

「せめてウォーキングでも」と思うが、これがなかなか。。。

なにか「小道具」でもあれば励みになるかも、
とネットで注文した万歩計が送られてきた。

Amazon で一番お安いのだから、機能はズバリ「数える」のみ。
でも、その分ちっちゃくて、コロンとしてて、しかもイッチョマエにスケルトン。

数字の「0」が、誘ってるなあ。

なんか、がぜん歩く気まんまん。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年6月13日 (金)

曼荼羅

二胡のレッスンのついでに、藤田弘基さんの写真展「ヒマラヤ曼荼羅」へ。

会場は、写真屋さんが新宿御苑に新しくオープンしたフォト・ギャラリー。

ギャラリーだから、もちろん無料。でもって、とってもミニ・サイズ。

だけど、だぶんミニだからこそ、「曼荼羅」の世界にすっぽり包まれて、

フッ、と瞑想状態に落ちていきそうな心持ちになる。

なんか、雪の「かまくら」の中にいるみたい? それとも母親の子宮の中?

眩暈がしそうなほどの極彩色。ただただ、色、色、色、に囲まれて、

やがてそれは光となって、生れる前の、もとのもとへと帰されていくような。

チベットに触れると、わたしはなぜか故里を見るようになつかしい。

本当は、本当は、写真じゃなくて、本物に囲まれたい、のよー!!!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年5月21日 (水)

まどろんでたのね

きょうは東池袋の“アウルスポット”へ「まどろみ」を観に行きました。
宣伝ポスターはこんなのですが、劇中こんな場面はどこにも。。。
セットも衣装もいたって日常的。ただ、ストーリーはかなりシュールです。

不眠症の男が主人公。そして、彼とまったく同じ顔を持つもうひとりの男が「影」のように存在する。しかし、はたしてその「もうひとり」は実在するのか? う~ん。。。
暗転なしに場面がくるくる入れ替わる。過去も今も先も、同じ舞台の上。時間も人格も境界線は融けていき、どれひとつ確かなものはなくなっていく。

あー、なるほど。まどろんでたのね。不眠症の人間って、ホントはどこかでまどろんでいる。そうして、夢と現実の境がなくなっていく。でも、現実って何? 私って誰? 夢の中の私も夢の中のあなたも、夢の中では確固たる現実の存在。じゃぁ、起きていると思っている今のこの私は、ホントに起きているの?


劇場の中はこんな感じ
P1020401
  





           ホワイエには
           ともさかりえちゃんへのお花がいっぱい
           P1020395

りえちゃんは、手も足も細くて長くて奇麗でした。
でも、芝居的には村岡希美さんが光ってた。
だけど、わたしの本命は『相棒』で鑑識の米沢さんを演じる六角さん。
六角さん見たさに行ったようなもの。

あっ、六角さんにもお花が!
やっぱり『相棒』だー!   P1020391_2   



   やはり、こちらからも。
   ここのCMはできれば
   出てほしくなかったけど。。。
  P1020392

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年3月30日 (日)

エルになりたい

きょう見た映画、『キューティ・ブロンド/ハッピーMAX』

“女の子”であることを、おもいっきり楽しみたくなる映画です。

「女」とか「男」とか、そういう括りはあまり好きじゃないけれど

自分の中の「女の子」を否定する気はさらさらない。

“めげない!逃げない!!へこたれない!!!”

いつも元気な女の子エルが教えてくれるのは

自分を偽らないことの大切さ。

女であろうと男であろうと、ありのままの自分を信じることの力強さ。

「単純」って、意外と強力なものなのさ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年3月27日 (木)

猫三昧

近所に猫カフェがあるというので、ものは試しに行ってみました。
いろんな種類の猫ちゃんが約20匹。
カフェといっても、相手は猫ですから、愛想よくお給仕してくれたりはしませんよ。
あくまでも、マイペースの猫ちゃんたちです。

P1010374

きょうはお客さんが多くて
お疲れモード?










P1010407

レジカウンターでも寝てしまう。










P1010382

椅子の間は特等席?











P1010372

おっ、起きましたか。










P1010389

君も。










P1010406

次の行動を思案中。









P1010369

一番のお気に入りはこの子。
まだ、赤ん坊ですね。
遊びつかれて寝てます。







P1010391

と思ったら、
クッション相手にひとり遊び。









P1010392

でも、すぐおねむモード。









P1010395

あっ、倒れた。











P1010397


もう、死んだよう。
こうなったら、
さわりまくっても起きません。

かわゆい~heart01

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年3月24日 (月)

お決まり

タカラヅカ、見に行きました。日比谷へ。

別に“ヅカファン”ってわけじゃありません。

例によってチケットまわってきたもんで。

小学校以来かな~。(こちらは本場で)

華麗なる、学芸会。

姿も声もみんなおんなじで、誰が誰だか分からないけど、

結構楽しんでる自分がおかしい。

お決まりのラインダンスや最後の“シャンシャン”が出てくると、

これぞタカラヅカ。。。で、ちょっと安心するから不思議。

おかげで、少しリフレッシュ、かな?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年3月16日 (日)

精進

Oリングテストって知ってますよね。親指と人差し指で輪を作り、別の人がその輪をほどこうと引っ張る。それによって、自分に良いものと悪いものを見分ける方法です。輪がほどけると、それは悪いというサイン。わたしもこれまでに何度かやってもらったことがありますが、その真偽のほどは?でした。

夕べのフラワーエッセンス講座で、このOリングテストを実証する実験台になりました。水の入ったグラスがふたつ。一方は、体に悪い(と言われている)単なる水道水。一方は、それをロック・ウォーターのエッセンスで浄化したもの。どちらがどちらか分からない状態で、ひとつづつ手に乗せて、エイッ。すると、ただの水道水だとフニャっと開いてしまうのが、浄化した水の方だと、しっかり閉じたまま。不思議ですね~。

こんな風に、目には見えないものと呼応して良い悪いを判断する力が、人には誰しも備わっているらしいのです。わたしにも人並みにあるようで、よかった。

感動的だったのは、その後、参加者のひとりがペットボトルに入れて持ってきていたお水を手に乗せたときでした。実はそれは秩父の山奥で汲んできた湧き水だったのですが、それを手に乗せた途端、エイッとするよりも先に、「わたしは今ものすごく良いものに触れている」という感覚を強烈に感じたんです。もちろん、指は「絶対はなれませんよー」という感じで、ぴたっ! 不思議ですね~。

わたしは、これからしばらくの間、この目には見えないものと呼応する力(と言っても、別に超能力とか言うんじゃなくて、自分の体の声、心の声を聴くという意味ね)を研ぎ澄ましていきたいと思っています。

で、この講座では毎回宿題が出るようなのですが、今回の課題は「精進潔斎」。昔の人は、お彼岸になると精進潔斎をして身を清めたのだそう。お彼岸の中日をはさんで前後3日間、普段ハマりこんでいるものを何かひとつ断つことになりました。わたしの場合は「コーヒー」。なんてたって、ここんところ1日に4-5杯は飲んでますからね~。明日から1週間、コーヒー断ちです。

このストレスフルな状況でコーヒーなしの生活は、思ったよりも辛いかも。。。でも、やるっきゃないね。精進、精進。

お仕事の方は、今週のノルマをなんとか終らせました。あくまでも、なんとか、です。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年2月 9日 (土)

因縁

今夜は、また上野さんのワークショップに参加してきました。

席順はいつもくじ引きで決めるのですが、普段だとこの席順で小さなグループを作り、ちょっとしたワークをします。でも、きょうはそのワークがなかった。ならば、この席順にはどんな意味があるのだろう。たまたま隣り合わせた人とそう話していました。

お隣りのその女性とは、初対面にも関わらず何だか波長が合ったようで、いつになく会話がはずみました。そして、いろいろ話をしている内に、なんと、ふたりとも3月から始まる上野さんのフラワーエッセンス講座を受講するのだということが判明したのです。

そっかー、そういうことだったのね。

もちろん、あそこでそういう人と隣り合わせになる確率はそれ程低いわけではありません。でも、やっぱり「因縁」ってあるのよね。

本日いただいたエッセンスは「クラブアップル」。他人と自分を比べ、小さな事にこだわって全体が見えず、自己嫌悪に陥っているときに飲むとよい、とされています。

うん、確かに最近、自分を他人と比べてくよくよする気持ちがなかなかふっきれなくて困ったなあと思っていたのよね。うんうん、これが今年の課題なのね。

と納得していたら、上野さんの本にはこうも書かれていました。

「必要以上にたくさん食べてしまって具合が悪くなるパターンを繰り返す女性にも有効です」

えっ、もしかして本命はこっち?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年1月22日 (火)

スペシャル

きょうは満月。

でも、今回の満月はわたしにとっては特別。

もうすぐ、誕生日がやってくるんです。

だから、きょうの満月を輝かせているのは、わたしの星座である
みずがめ座のパワーを乗っけた太陽の光、って訳。分かる?

つまり、

みずがめ座 → 太陽 ⇒ 地球 ⇒ 月

こう並んでいるのです。

だから、きょうの月光はみずがめ座人向けスペシャルカクテルという訳。

がんばんて浴びなくっちゃ。

でも、寒くって外出れない。。。 (-_-;)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年12月11日 (火)

あしたの自分

上野さんのワークショップのおまけ(アフターワークショップ)に行ってきました。
その前置きでのハナシ。

人間は瞬間瞬間あたらしい。
だから、いつも未知の自分が明日に待っている。

そうですね。細胞だってどんどん新しいのと入れ替わっている。だいたい4ヶ月くらいで、
からだ中の細胞がほぼ全部入れ替わるそうですから、同じ自分と思うほうがおかしい
くらい。だけど、大事なのは、その新しい自分がすでに今の自分の中に存在している
ということ。

今の自分の中には明日の自分が内包されている。
だから、今の自分は光り輝く存在なのだ。

そうですか。
明日の自分は明日になってから出来るんだと思っていたけど、
もうここにいるんですか。
そう言われると、なんだか自分で自分を抱きしめたくなっちゃいますね。


恵比寿ガーデンプレイスのイルミネーション
きれいだけど、ブロッコリーに見えるのはわたしだけ?
P1000776











ツリーの向こうに見えるのは東京タワー
なんだか、はり合ってるようにも。
P1000772


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年11月27日 (火)

異人の唄

きょうは新国立劇場にお芝居を観に行ってきました。
またまた「タダ券」が舞い込んでまいりまして。

場所は「中劇場」。今回はオープン形式で、すり鉢状の客席の底の平たい部分が舞台になっており、ギリシャ時代の野外劇場を思わせる雰囲気です。これは、ちょっと気に入ってます。規模も客席数約1000とそれ程大きくなく、芝居を見るにはちょうどいいサイズかと。

さて、演目は「異人の唄」。新国立劇場開場10周年記念、新芸術監督の就任企画第1弾という鳴り物入りの出し物ではあったのですが、わたしとしてはこれと言って見るところがありませんでした。ギリシャ悲劇を下敷きにした新作3部作の最後で、実はVol.2も見たのですが、そちらも「悪くはないけどよくもない」という出来でした。いっしょに行かれた方が言うには、Vol.1が一番よかったとか。

役者さんたちの演技そのものはひじょうに完成度が高いのですが、いかんせん脚本、演出が貧弱で感動を呼ぶ要素がまったくない。せっかくのキャストなのに、「もったいない」のひとことです。

確かにギリシャ悲劇っぽくはありました。でも、この「ぽい」というのが曲者。下敷きに引きずられているようで、あれもこれもといろんなものの単なるごった煮状態に。ひとつの芯が見えてこない。訴えるものがないって、そういうことなのかな。

なんて、わたしの書いているものだって、「芯」なんてどこにもないなあ。そもそも生活に「芯」がないせいか。。。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年11月25日 (日)

月光浴

P1000679











ベランダに出たら、月がきれいに。
本当はきのうが満月でした。
でも遅ればせながら、ちょっとだけ月光浴。
月はわたしたちに大きく影響力のある天体。
その光にもいろんな力がこもっていると信じられています。
パワーストーンも月の光で浄化したりするんですよ。
自然は差別しないから、わたしみたいな不信心ものも少しは浄化してくれるでしょう。

はっ、狼おばさんに変身したらどうしよう。。。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年11月24日 (土)

偶然と選択

大きなからだがさら大きく見えるマントのようなコスチュームをひるがえしながら、
その人はステージに現れました。満面の笑みを浮かべ両手を高く振りかざして
歓声に応える彼。それに、これまた両手を高く振って応えるおっかけおばさん達。

ひょんなことから手に入ったソプラニスタ、岡本知高のコンサートチケット。
東京オペラシティ。

初めて見るクラシックの舞台。初めて聞く男性ソプラノの声。
「クラシック歌手の声って、どうしてあんなに濃いのかしら」
最初はそう思って聞いていたわたし。

でも、最後は涙してしまいました。何故かしら。。。

アンコール最終曲に思ってもみなかったメロディが。
中孝介くんの「花」。わたしの大好きな歌。
彼にも今年ひょんなことから奄美の島で出会いました。

ひょんなことで知ることとなったソプラニスタが、ひょんなことで出合った中くんの歌を
うたう、ひょんなことで行くことになったコンサート。

人生の何もかもが偶然の積み重ねのように見えて、でもある意味そのどれもが決して
偶然ではない。きっかけは「ひょんなこと」でも、確かにわたしはその度に自分の意思で
選択してきた。その「ひょんなこと」を、無視するか、ひろい上げるか。

自分が今ここにいる不思議。生かされているという大いなる偶然、あるいは必然。

その、人生における膨大な数の偶然と選択とその結果である今の自分を想って、
わたしの涙はこぼれたのだと思います。驚きと、喜びと、感謝のために。

岡本知高さんの歌を聞きたい場合はこちら↓(ちょっとボリューム高いですよ)
http://www.youtube.com/watch?v=YMNps1iPyKk

中孝介くんの「花」はこちら↓
http://www.youtube.com/watch?v=vnj_NbpxqYM


東京オベラシティ アプローチ
P1000664


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年11月23日 (金)

森の中の海

P1000608











本日は下北にある「スズナリ」へ結城座の人形芝居を観に行きました。
わたしの好きな役者さんである(渡辺えり子改め)渡辺えりさんが本を書き、唐組の
稲荷さんがゲスト出演とあっては、これは行かないわけにいかないでしょ。
でも、実はスズナリに行ったのも結城座のお芝居を観たのも今回が初めてでした。

整理番号はそれ程うしろではなかったので席はいろいろ選べたけど、例によってわたしは一番前のかぶりつき。でも、今回ほど「かぶりつき」してよかったと思ったことはありません。だって、時にお人形さんたちがわたしの目のまん前に来てくれたんですよ。手を伸ばせば触れられるような近距離でお人形さんたちの演技をじっくり拝見。

いいお芝居でした。人形と人間のコラボであることを忘れてしまうような空間。
結城座の人形芝居、また観に行きたいと思います。
「森の中の海」も25日までやってますから、お時間があれば是非。是非、是非。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年11月10日 (土)

修行

きょうは長い1日でした。

午前は青山でお勉強。続いて246カフェで恒例のランチ。そのあと、大森まで落語を聞きに行きました。というのも、翻訳講座の大先輩がゲットした「ぽっどきゃすてぃんぐ落語」の入場券が回ってきて、わたしもそのお相伴にあずかることになったのです。翻訳人脈の恩恵第1号が「落語」というのも、なかなかオツなもんじゃあござんせんか。

湯島で働いていたころ、上野広小路にある鈴本演芸場の前を通るたびに1度は入ってみたいもんだと思いながら、結局実現いたしませんでした。ですから、恥ずかしながらこの歳にして落語を生で聞くのは初めて。ずい分とおもしろいもんでございましたよ。

「ぽっどきゃすてぃんぐ落語」というのは、ニフティがやってるポッドキャスティング用の公開録音のことで、収録されたものは iTunes で聞くことができます。
http://www.podcastjuice.jp/rakugo/

本日の演目はこちら。
P10005202_2








出演しているのは若手の落語家さんたちです。耳の肥えた方々に言わせれば、大御所さん方の熟練の技に比べるとまだまだ未完成なのかもしれませんが、素人のわたしにはそれはもう、どなたもしっかりプロの芸でございました。

それでもですね、若手さんがやられていると思うと、蕎麦をつつーっとすすってみたり、お酒をぐびーっと呑み干してみたりする、言わば「見せ」の場面なんかでは、見ているこちらもちょっとドキドキしてしまったりするのです。「この域に達するまでには、さぞかしつらい修行を積み重ねてこられたことでしょう」

同じ所作を明けても暮れてもあーでもないこーでもないと繰り返し、時には師匠から扇子でペシっと手を叩かれ、「何度おんなじこと言わせやがる。やる気がねえなら荷物まとめてとっとと故郷(くに)へ帰んな」と怒鳴られたこともあるやもしれず。はたまた、遅々として上達しない自分の芸に嫌気がさして、「やっぱりむいてないのかも。ほんとにくにへ帰ろかな」と思いながら、悶々と眠れぬ夜を過ごしたこともあったかも。

実際にはこんな風にはっきりと言葉になったわけではありませんが、そんなような気持ちがぼんやりした雲のかたまりのようになって目ん玉の裏っ側をすっと横切ったような気がします。きっと、午前中のお教室の続きでやってきたせいで、ついつい修行中の我が身と重ね合わせてしまったのでしょう。わたくしも、眠れぬ夜を乗り越え、1日も早くこの若手落語家さんたちのようにしっかりとしたプロの芸を身につけたいもんでございます。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2007年11月 1日 (木)

漢方薬

P1000282













最近、ずい分と寒くなってきましたねえ。
おかげで、わたしはこのところめっきり息苦しくなりました。
実は、わたしはお鼻がつまりやすい体質で、生れてこの方すっきり通ったことがないのです。文字通り、生れてからず~っとそうだったから、人間とはこういうものだと思い込んでおりました。そうでない人がいるなんて、つい最近まで知らなかったのです。へーっ、お鼻がいつもすーすー通っている人がこの世の中にはいるんだあ。

いいな~。

先日、美容院で鼻ぐすぐすしていたら、「鼻炎ですかあ? うちの主人、鼻水止まらなくなったとき漢方薬のんだら1ヶ月で治りましたよお」と、美容師さんが近所の漢方薬局をおしえてくれました。

1ヶ月!

生れてからウン十年つきあってきたこの鼻づまりから1ヶ月で解放されるなら、それは行かなくっちゃ!

ということで、きょう(あっ、きのうになっちゃいましたが)買い物のついでに行ってまいりました。まずは、問診。
「鼻水は出ますかあ」「痰は?」「いま飲んでるお薬あります?」「お通じは?」「汗はかきますか」「よく眠れますう?」「いびきかきますかあ」「食欲は?」 ・・・ などなど多種多様の質問に答えたあと、「ちょっと、舌見せてください」。べぇぇぇぇぇ。

「貧血ですねぇ」 ―― わっ、舌で分かるんだ。

実は、わたしは貧血さんでもあるのです。ついでに言えば、胃は人の半分ほどしかなく(そのくせよく食う)、代わりに下っ腹に大きな子供を宿しています。かなりの未病状態、というかほとんど病気。やだっ、もしかしてこの人には見え見え? こんなところに来たのは間違いか。

結局、わたしは血液が滞りやすく、水分が溜まってからだがむくみやすい体質で、「最近、食べたら眠くなりませんかあ」。そりゃぁ、誰でもそうでしょ。でも、言われてみれば、このところトミにひどい。「それは体力が足りないからです」。へっ?

諸悪の根源は体力不足。ここで言う「体力」とは、「活力」というか「精力」というか「生命力」というか、からだとこころを動かすエネルギー、あるいはそれを生み出す能力のことでしょうね。それが低い。オーラ写真でも、ベースのチャクラが弱いと言われたなあ。

「からだを温めるものを食べて、冷やさないように。それから適度な運動を・・・」

ひぇー、それはもう分かってますってえぇぇぇぇ。

「すぐに良くなるとは思わないでくださいね。慢性病ですから効くのも時間かかります」

えっ、1ヶ月じゃないの? それじゃ話しが・・・。

とはいうものの、今さら帰りますとも言えず、いや別にそう言ってもよかったのだけど、この漢方薬剤師さんが「漢方」にしては(というのも変ですが)結構な好青年だったので、好青年に弱いおばさんは、これも何かのご縁(好青年とじゃないですよ、漢方薬とですよ)と思って買ったのがこの「鼻淵丸」。本場、中国は武漢からはるばるやって来たお薬です。8,663円な~り~。これで約1ヶ月分。キャーっ。

健康でいるのも、金かかります。なんだかなー。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月24日 (水)

オーラ写真

先日、オーラの写真を撮ってきました。

これが、その写真。
P1000235 「オーラの写真」と言っても、特殊なカメラでバシャッと撮ったらフィルムにオーラが写しとられる、というわけではありません。

どうやら、センサーにかざした手の指から体の発する電気信号を読み取り、そのデータをコンピューターで色に変換して画像に再構築するようなのです。体温も計っているようです。画像にする際に使われるソフトのプログラムは、センサーで採取したデータと、「オーラが見える」という人が実際に見た色とを検証・照合して作ったものということになっているようで、つまり、「データとの検証・照合」という部分は言わば統計学なわけで科学的と言えなくもありませんが、そもそも「オーラ」の実在と「オーラが見える」ということの実証がされていないので、やっぱり非科学的ではあるわけです。

一般的に、からだの右側(写真では左側)は外に向かうエネルギー、つまり自分が他人にどのように見えているのかを表し、左側(写真では右側)は内に向かうエネルギー、つまり自分がいま何をめざそうとしているのかを表し、中央部は本質的な自分を表していると言われています。左右の色はその時々の状況で変わってきますが、中央は言わば基本的な性格を表しているので、よほど大きな環境の変化がない限りはそう変わるものではないらしいです。

わたしの場合はと見ると、中央は黄色。つまり、明るくて楽天的でクリエイティブ。写真といっしょにもらえる「オーラレポート」によると・・・「人生はチョコレートの箱のようなもの、中身は甘くて楽しい」と考える性格らしい。まっ、今はそっかなあ。少なくとも、そういうものにしたいっ、とは思ってる。

右側は青。まわりの人からは「落ち着いた雰囲気の穏やかな人」と見られているらしい。う~ん、たぶんそうだろう。実際はそうでもないけど。

で、左は緑。今のわたしは他人とコミュニケーションをはかることに努力を傾けている。あら、そうそう、そうなのよ。何でわかるの? ってな感じ。

七つのチャクラも出てますね。カウンセラーさんによると、上から3つ目の喉のチャクラがちょっと元気ない。コミュニケーションにエネルギーを使いすぎてちょっとお疲れモードなんだとか。物理的にも、喉が弱っているらしい。うんうん、そうなのよねえ。でも、ベースのチャクラも頼りないので、まずここを回復すべし。ちょっと運動不足じゃないですか?――わーっ、それ言わないで!

そして。。。「Disharmonious-Low energy」 ストレスでエネルギーが低下しているので、「内面のバッテリーを再充電するまで休養をとるとよいでしょう」

やっぱり、わたし間違ってなかったんだあ。今は休む時なのよねえ。

と、今の自分を再確認したような気分になって帰ってきたんですが、結局ひとは自分の見たいものしか見ない、聞きたいことしか聞かない。仮に、まったく違う色が出たとしても、あるいは、まったく違う「レポート」が出たとしても、やっぱり同じように納得したかもしれません。でも、それでいいんです。占いにしたってリーディングにしたって、それで元気になれればいいわけで、自分にいいように考えてそこからご利益もらえばいいわけで・・・って、やっぱりわたしは「黄色い楽天家」かぁ? ふ、ふん。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月22日 (月)

シャコちゃん

さっき、ベランダの鉢植えに水をやっていたら、シャコバサボテン(通称シャコちゃん)
4鉢全部に蕾らしき小さなポッチを発見 ('o')

やったー ^_^ v

シャコちゃんは、ことし植え替えをしてあげました。これは、生き物はいつだってすぐ殺してしまうわたしにとって、世紀の大事業。それでもなんとか根を張り、葉っぱ(?)を伸ばし、この異常な夏の暑さも乗り越え、けな気に生き延びてくれていたのです。

それでもって、ツボミ


感謝、感謝大感謝


どうぞ、ほんとに蕾でありますように。
そして、無事咲いてくれますように。
お願いっ ( ><)//

| | コメント (0) | トラックバック (0)

Tree Angel

土曜日の午後は、いつもお世話になっている上野七歩子さんのワークショップへ行きました。

今回のテーマは「樹木の天使に出会う」。

秋分の日から始まる半年は、闇の力が強くなる冬の季節であり、視線が自己の内面に収束していく時期でもあります。今回のワークショップでは、そのような時期に自らを見つめなおすテーマとそれをサポートしてくれる Tree Angel に出会います。

わたしたち人間は、ひとりひとりがその中に小さな宇宙を抱えています。地球を含む大きな宇宙(マクロコスモス)と、わたしたちのからだの中にある小さな宇宙(ミクロコスモス)は、別々のものではなく、元々ひとつのものなのです。ただ、わたしたちは地球という現実の中に生きているため様々な制約に縛られており、そのせいでややもするとすぐにエネルギーのバランスがくずれてしまいます。そんなとき、わたしたちは自分たちを生み出した場所=宇宙から送られてくるエネルギーを受け取って、この現実を生き抜いていくパワーを取り戻すことができるのです。

わたしたちが花を見てどうしようもなく惹かれてしまうのは、花が人間の願いを体現しているからです。花は光です。光となって咲き、空を見上げています。わたしたちはそれを見て、自分が本当は光=宇宙のエネルギーの一部であることを思い出し、光となって故郷へ戻りたいという自らの願いをそこに見い出すのです。

反対に、樹木は宇宙のエネルギーを空から大地へと下ろし、この地球という現実に充満するネガティブな力=闇に光を当ててくれます。たとえば、わたしたちが自らの内面の揺らぎと向き合うとき、その大きな支えとなってくれるのです。

わたしの今回の Tree Angel は、Blackthorn ブラックソーン でした。ブラックソーンとは「黒い棘」という意味。日本にはない木ですが、名前の通り棘に覆われているのでイギリスでは生け垣に使う木として人気があります。春には可憐な白い花をつけ、再生の季節の到来を告げます。

ブラックソーンは闇の世界でのガーディアン。闇と対峙する者を必ず守ってくれる力強い守護神です。わたしは、これから春までの半年間、今まで自分が目をそむけてきた自らの闇の部分に立ち向かわなくてはならないらしいのです。小心者のわたしにはずいぶんと恐ろしいことです。でも、その向こうには必ずや許しと癒しが待っていると言われれば、少しは勇気も出るというもの。どうせいつかは立ち向かわなければならない相手であるのなら、頼もしい助っ人のいるときにやっつけてしまうのが得策かもしれません。


~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*
以上は、ワークショップでの上野七歩子さんのお話しを元に、わたしの個人的理解を書いたものです。
実際のワークショップでのお話しは、もっともっと内容の濃いパワーに満ち溢れたものでした。

Blackthorn : Photo © Carl Farmer

Prunusspinosa1_2












| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月 8日 (月)

唐組 『眠りオルゴール』

P1000121_2






















唐組の公演を観るのは2回目。今回の演目は『眠りオルゴール』。
場所は、うちのすぐそばの「木もれ日原っぱ」。ジブリ美術館のおとなりだ。
だから行く? それもある。
でも、ここでやらなければ、やはり新宿花園神社まで行くかもしれない。
それほどに、唐組は衝撃的、麻薬的、娼婦的。

わたしにとって、唐組の芝居は芝居じゃない。
歌であり、リズムであり、読経であり、鼓動だ。
だから、正確に言えば、「観る」のではなく「浸る」のだ。



P1000126











昼間、「木もれ日原っぱ」にたたずむ紅テント。
「木もれ日原っぱ」とは、去年ここでテントをはることになったとき、
唐さん自らが名付けたらしい。いい名だ。


P1000118

本番が近づくと、紅テントも
夜のおどろおどろしさに包まれる。







P1000123













| | コメント (0) | トラックバック (0)